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大阪府大阪市


おおさかじょう


復興天守

豊臣秀頼、淀殿 自刃の地
大坂城 (大阪府大阪市中央区大阪城) 
天守:復興天守  日本100名城  三名城  三大名城
戦国期の主な歴史
1496年 本願寺8代宗主・蓮如が大坂御堂を建てる。
1533年 本願寺10代宗主・証如により本山となり、石山御坊(大坂御坊)と呼ばれる。
1568年 本願寺11代宗主・顕如織田信長の矢銭5千貫の要求をのむ。
1570年 顕如、信長の石山御坊明け渡しを断り、石山合戦が始まる。
1580年 顕如、信長と和睦し石山御坊を退去。石山合戦が終わる。
1583年 豊臣秀吉、御坊跡地に築城開始。初代総奉行は黒田官兵衛(孝高)
1585年 天守が完成。
1598年 秀吉が伏見城で亡くなり、秀吉の子・秀頼が城主となる。
1600年 関ヶ原の戦い。豊臣家、220万石から65万石に減封。
1614年 大坂冬の陣。講和後、堀を埋められ裸城状態になる。
1615年 大坂夏の陣。秀頼と淀殿が自刃。豊臣家が滅亡する。城も焼失。
1620年 徳川秀忠によって再建が始まる。総奉行は藤堂高虎

(メモ)
 昭和以降に建てられた復興天守の第一号。外観は、4層まで徳川時代風の白漆喰、五層からは豊臣時代風で黒漆に鶴と虎が金箔で描かれ、両時代を混合したものになっている。
 現在見られる遺構は徳川時代のもので、豊臣秀吉時代の遺構は地中に眠っている。
 徳川時代のものは、天下普請によって築城され、石垣は各地の大名によって運ばれた石が使用されている。中でも岡山藩・池田忠雄や熊本藩・加藤忠広は100トン以上の巨石を運んでおり、桜門枡形内の池田忠雄が運んできた巨石(通称・蛸石)は130トンと推定されている。
 
極楽橋と天守 大手門(重要文化財) 桜門(重要文化財)
桜門枡形内にある石垣(蛸石) 六番櫓(重要文化財)と堀 石山本願寺跡地の石碑(二の丸)

大坂城天守閣

<見れた展示物> 
紹介している展示物は常に見れるとは限りません。

伝真田幸村所用 鉄二枚胴具足
 真田幸村所用と伝わる具足。籠手の甲に真田家の家紋・六文銭、草摺りの下の方にはハート形にくり抜かれた猪の目がある。幸村といえば赤備に鹿角の兜の印象があるが、この具足は、実戦的で色合いも地味なものになっている。

後藤(又兵衛)基次所用 日月竜文蒔絵仏胴具足
 黒田二十四騎、黒田八虎、そして大坂城五人衆のひとりに数えられる後藤又兵衛の具足。仏胴の胸に太陽と月。腹の部分に龍が蒔絵で描かれている。

浅野長政所用 茶糸威桶側五枚胴具足
 五奉行の筆頭・浅野長政所用の具足。大水牛の脇立が特徴。兜や胴には火縄銃の試し撃ちのある。



さなだまるあと


真田丸顕彰碑
 真田丸跡  (大阪府大阪市天王寺区餌指町)
 1614年、大坂冬の陣で豊臣方についた真田幸村大坂城の弱点である総構えの南方に築いた出丸(出城)跡。
 幸村はこの出丸で徳川方の前田利常松平忠直井伊直孝の軍勢を蹴散らした。だが、真田丸での戦いは戦い全体から見れば局地戦に過ぎず、結局、冬の陣は豊臣方が妥協するような和睦で終わり、和睦の条件として真田丸は取り壊された。
(メモ)
 取り壊されたため周辺に遺構らしきものは見当たらない。近年の調査結果で真田丸は明星学園辺りにあったと考えられており、顕彰碑は学園のテニスコートに沿った一般道の歩道に建てられている。
 かつては大坂城に隣接していたと思われていたが、最近では大坂城から谷を挟んだ独立した出丸と考えられており、それを物語るように顕彰碑の立つ場所から大坂城方面は下り坂となっている。


真田幸村像と「真田の抜穴」
 三光神社 (大阪府大阪市天王区玉造本町)
 真田丸跡にある神社。
 境内には真田幸村像があり、像のすぐ近くには大坂城へ繋がっていたと伝わる「真田の抜穴」がある。ただ、最近の調査で真田丸の中心は神社のもっと西側であったことがほぼ確定しており「抜穴」は徳川方であった前田利常の軍勢が真田丸攻略のために掘った塹壕だったのでないかと言われている。

(メモ)
 周辺には真田丸跡であったことを示す石碑や案内板を置くお寺もあるが、この三光神社が真田丸跡であったことを一番リスペクトしていると感じる。



ちゃうすやま(天王寺公園) 

 茶臼山 大坂冬の陣・徳川家康本陣 大坂夏の陣・真田幸村本陣跡 (大阪府大阪市天王寺区茶臼山町)
 1614年の大坂冬の陣では徳川家康が、翌15年の大坂夏の陣では真田幸村が本陣を置いた山。
 幸村はこの場所から家康の本陣に波状攻撃をかけて家康に自害を決意させるほどの猛攻を見せ「日本一の兵(つわもの)」と呼ばれた。

(メモ)

 大阪五低山と呼ばれる山のひとつで標高は26mほどしかなく、前方後円墳といわれている。
 山頂には標高を示す小さな石碑があり、石碑には徳川家の家紋である「三つ葉葵」と真田家の家紋である「六文銭」が彫られているが、近くにある説明板はほとんどが幸村のもので日本人らしい判官贔屓状態になっている。



やすいじんじゃ


真田幸村戦死跡之碑
 真田幸村像  安居神社 真田幸村終焉の地 (大阪府大阪市天王寺区逢阪) 
真田幸村終焉の地とされる神社。
 1615年、大坂夏の陣で真田幸村は徳川家康の本陣に迫り、家康も切腹を覚悟するほどの活躍をしたが、一歩及ばず撤退した。撤退後、傷つき、この神社で休んでいたところを、越前松平家の家臣・西尾宗次に発見され討ち取られた。
 宗次に発見された時、幸村は「儂の首を手柄にされよ」と言ったという。のちに、幸村の活躍は「日本一の兵」と評された。

(メモ)

 大坂の陣での幸村の活躍は、比較的若い姿で描かれることが多い。しかし、実際は49歳で歯も抜け落ちていたらしい。そのため、神社にある銅像は史実に近いものになっている。