![]() 復興天守 ![]() 豊臣秀頼、淀殿 自刃の地 |
大坂城 (大阪府大阪市中央区大阪城) | |
天守:復興天守 日本100名城 三名城 三大名城 | ||
戦国期の主な歴史 1533年 本願寺の本山となり、石山御坊(大坂御坊)と呼ばれる。 1568年 本願寺顕如、織田信長の矢銭5千貫の要求をのむ。 1570年 本願寺顕如、織田信長の石山御坊明け渡しを断り、石山合戦が始まる。 1580年 本願寺顕如、織田信長と和睦し石山御坊を退去。石山合戦が終わる。 1583年 豊臣秀吉、御坊跡地に築城開始。初代総奉行は黒田孝高(官兵衛)。 1585年 天守が完成。 1598年 豊臣秀吉が伏見城で亡くなり、秀吉の子・秀頼が城主となる。 1600年 関ヶ原の戦い。豊臣家、220万石から65万石に減封。 1614年 大坂冬の陣。講和後、堀を埋められ裸城状態になる。 1615年 大坂夏の陣。豊臣秀頼と淀殿が自刃。豊臣家が滅亡する。城も焼失。 1620年 徳川秀忠によって再建が始まる。総奉行は藤堂高虎。 (メモ) 昭和以降に建てられた復興天守の第一号。外観は、4層まで徳川時代風の白漆喰、五層からは豊臣時代風で黒漆に鶴と虎が金箔で描かれ、両時代を混合したものになっている。 現在見られる遺構は徳川時代のもので、豊臣秀吉時代の遺構は地中に眠っている。 徳川時代のものは、天下普請によって築城され、石垣は各地の大名によって運ばれた石が使用されている。中でも岡山藩・池田忠雄や熊本藩・加藤忠広は100トン以上の巨石を運んでおり、桜門枡形内の池田忠雄が運んできた巨石(通称・蛸石)は130トンと推定されている。 |
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大手門(重要文化財) | 大手門多門櫓(重要文化財) | 大手口枡形内にある石垣 |
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桜門(重要文化財) | 桜門枡形内にある石垣(蛸石) | 六番櫓(重要文化財)と堀 |
大坂城天守閣 <見れた展示物> 紹介している展示物は常に見れるとは限りません。 伝真田幸村所用 鉄二枚胴具足 真田幸村所用と伝わる具足。籠手の甲に真田家の家紋・六文銭、草摺りの下の方にはハート形にくり抜かれた猪の目がある。幸村といえば赤備に鹿角の兜の印象があるが、この具足は、実戦的で色合いも地味なものになっている。 後藤(又兵衛)基次所用 日月竜文蒔絵仏胴具足 黒田二十四騎、黒田八虎、そして大坂城五人衆のひとりに数えられる後藤又兵衛の具足。仏胴の胸に太陽と月。腹の部分に龍が蒔絵で描かれている。 浅野長政所用 茶糸威桶側五枚胴具足 五奉行の筆頭・浅野長政所用の具足。大水牛の脇立が特徴。兜や胴には火縄銃の試し撃ちのある。 |
三光神社 真田丸跡 (大阪府大阪市天王寺区玉造本町) | |||
真田丸があったといわれる場所にある神社。 真田丸は、大坂城の南側・玉造口に造られた出丸(出城)。1614年、大坂冬の陣が始まる直前、豊臣方についた真田幸村が大坂城の弱点を補うために造った。 かつては総構えに繋がるように造られた丸馬出のようなものだと思われていたが、今は総構えの外に独立して造られたものだといわれている。 幸村はこの出丸で、前田利常、井伊直孝、松平忠直らの軍勢を散々に蹴散らしたが、その後、豊臣秀頼と徳川家康が講和した際、講和の条件として取り壊された。 (メモ) 境内には、大坂城へ続いていたと伝わる抜穴がある。しかし、最近では徳川方が掘った坑道、もしくは、真田丸を攻めた前田利常の塹壕の痕跡といわれる。 |
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![]() 真田の抜穴跡 |
![]() 真田幸村像 |
安居神社 真田幸村終焉の地 (大阪府大阪市天王寺区逢阪) | ||
真田幸村終焉の地とされる神社。 1615年、大坂夏の陣で真田幸村は徳川家康の本陣に迫り、家康も切腹を覚悟するほどの活躍をしたが、一歩及ばず撤退した。撤退後、傷つき、この神社で休んでいたところを、越前松平家の家臣・西尾宗次に発見され討ち取られた。 宗次に発見された時、幸村は「儂の首を手柄にされよ」と言ったという。のちに、幸村の活躍は「日本一の兵」と評された。 (メモ) 大坂の陣での幸村の活躍は、比較的若い姿で描かれることが多い。しかし、実際は49歳で、歯も抜け落ちていたらしい。そのため、神社にある銅像は史実に近いものになっている。 |
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![]() 真田幸村戦死跡の碑 |
![]() さなだ松(二代目) |
![]() 真田幸村像 |